ムスリム学びブログ

インドネシア人と結婚したムスリムの日々の学びの記録

『天気の子』感想の続き

主人公2人の年齢への向き合い方

 

陽菜は実際には来月で15歳の誕生日を迎えるはずなのに、帆高に来月で18歳と偽っていました。そのほかにも、須賀に「(年齢が15も18も)大して変わんねえじゃん」と言われて、帆高が「ですよね」と言うのに対し、「変わります!」と返しています。また、夏美に帆高のことを「本当に子供ですよね」と言ったり、「私は早く大人になりたいです」と言ったりしています。年齢を偽らないとアルバイトに就くことが難しかったからとは思いますが、おそらく陽菜は凪の保護者として精神的にも自立しなければと思っていたのでしょう。また、人柱のことは知らなかったにしても、自分の持つ不思議な力と「晴れ女」をやる毎に体が透けていく現実を見て、何かしら自分の身に課された大きな役割を感じていたのかもしれません。

 

陽菜とは対照的に、帆高は小学生の凪のことを年上としてのプライドもないかのように「センパイ」と呼んでおり、年齢の差をあまり気にしていない様子でした。警察に連行された時に初めて陽菜の実際の年齢を聞かされてショックを受けていましたが、物語の終盤に陽菜を救出に行った時、初めて「陽菜」と呼び捨てにしました。ここで帆高が精神的に大人になってきて、陽菜を絶対に守ろうという決意が示されているように思います。

 

凪の叫び

 

凪はプレイボーイではありますが、「晴れ女」の仕事をオーダーした老婦人の肩を叩いてあげたり、「姉ちゃんには青春っぽいことをしてほしいんだ」と帆高に語ったりと、姉思いの心優しい少年でした。物語終盤で警察に飛びかかった時に「全部お前のせいじゃねぇか!姉ちゃんを返せよ!」と泣きながら叫んだシーンは胸が詰まりました。前回書きましたが、須賀の「人柱1人で狂った天気が元に戻るんなら俺は歓迎だけどね」というセリフからは社会という大きな枠の中で陽菜の犠牲は取るに足りぬものとしか考えられていない印象を受け、歪んだ正義のようなものを感じますが、それに対してこの凪の叫びと涙は、姉を一人のかけがえのない人間としてみているからこそ出たものであり、姉を絶対に失くしたくないという必死の訴えに心打たれました。同時に、陽菜に「あなたを大事に思ってくれている人がここにもいるんだよ」と伝えてあげたいと思ったシーンでした。

 

次回もインシャッラー、この続きを書いていきます。

 

映画『天気の子』

先日、新海誠監督の『天気の子』が地上波初放送となったので、早速録画しましたが、最近になってようやく観たので、今日はその感想を書いてみたいと思います。この作品は登場人物の心理状態がその言動に細かく描写されているので、注意深く見ていると様々な発見がありました。内容も深く、考えさせられる映画でした。

 

須賀は現代人の代表

 

この物語の主人公、帆高の雇用主である須賀は、最愛の妻に先立たれ、大切な人を失って、心にどこか空虚なものを抱えて生きているようです。仕事も怪しげな記事の編集で、社会的評価も低く、亡くなった妻の母にも疎んじられ、自分の娘になかなか会わせてもらえない状態であり、その現状をどこか諦めに似た気持ちで受け入れているように思えます。須賀は何かを諦めて、それが大人なのだと自分を無理やり納得させて生きている現代人の代表的存在です。「人柱1人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね」というセリフからも、大切なものを諦めるのが大人なのだと自分を納得させている様子が窺えます。

 

その一方で、家出少年の帆高を放っておけなかったり、帆高の拾って来た猫を事務所で飼ってあげたり、寝言で亡き妻の名前を呼んだり、指輪を触ったりする様子から、人情味が感じられる憎めない存在でもあります。同時に、亡き妻のことを現在も引きずっている様子が窺えます。須賀は、帆高が警察を振り切ろうともがき、「邪魔するな!俺はただ、もう一度あの子に会いたいんだ!」という言葉にハッとしましたが、ここで帆高の陽菜に対する一途な気持ちと、会いたくても会えない元妻への自分の気持ちとを重ね合わせたのだと思います。大切な、自分がどこかに置き忘れて諦めていた心を思い出したのでしょう。その結果、警察を抑えて帆高を陽菜のもとに向かわせました。

 

このように、本来、人は誰でも柔らかい純粋な心を持っているのですが、社会生活に自分を順応させようとした結果、自分の純粋な気持ちをどこかに置き忘れ、社会に順応することこそが大人なのだと無理やり自分を納得させて生きている人が多いと思います。須賀の心の変化は、きっかけさえあれば思い出すことができるという希望を私達に与えています。3年経過後、帆高が須賀の事務所を訪ねた時に、事務所が広くなり、何人かスタッフを雇い、仕事の順調ぶりが窺えました。そして娘とデートしたことを、帆高に嬉しそうに報告していましたが、帆高の純真さを見てハッとしたあの「気付き」があったからこそ、須賀は過去を清算し、前向きに生きられるようになったのだと思います。

 

次回はインシャッラー、この続きを書いていきます。

こんな自分はケチなのでしょうか?

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生が話された内容に基づいて書いています。)

 

前回のお話の続きです。今日は番組の視聴者からの質問にソルメド先生が回答された内容をまとめていきます。

 

まずは視聴者からの質問です。

 

「私は妻子を養うだけで精一杯の生活です。私が屋台に入る時、ある貧しい老婆が自分の方をじっと見ていました。食べ物を分けてあげたい気持ちはあるものの、私には十分なお金がないため、ジレンマを感じましたが、結局無視してしまいました。こんな私はケチな人間の仲間に入るのでしょうか」

 

先生は回答する前に預言者様(彼に平安と祝福あれ)のサハーバ(教友)の話を紹介しました。ある日、預言者様(彼に平安と祝福あれ)の客人が来ることになり、預言者様(彼に平安と祝福あれ)がサハーバ達に「誰か私の客人をもてなしてくれる人はいますか」とお尋ねになりました。サハーバの一人が手を挙げたので、預言者様(彼に平安と祝福あれ)はその人の家で客人をもてなしてもらうことにしました。サハーバは家に帰って妻に預言者様(彼に平安と祝福あれ)の客人が来ることを告げると、妻は家には自分達が食べるだけのパンしかないと言いましたが、サハーバは、自分たちは食べずに、客人にそのパンを食べさせるように言いました。さらに、客人が遠慮して食べないという事態にならないように、部屋の明かりを消して自分たちも一緒に食べているふりをしました。アッラーはこの行為を大変喜ばれました。マーシャッラー。このように自分と自分の家族を犠牲にして他人に尽くすという行為は簡単には出来ないでしょう。

 

そこで、先ほどの質問者の話に戻りますが、貧しい老婆に食べ物を分けてあげるか、自分に余裕がないため自分と家族を優先するかは自分で選択すればよいと先生は言われました。この質問者の場合、貧しくて生活に余裕がないので、貧者に分け与えなくてもケチであることにはなりません。ですが、アッラーのお喜びを得るために多くなくても分けてあげるという選択肢もあります。これは自分で選ぶことができます。

 

先生は、アッラーを畏れる人たちには特徴があると言い、クルアーンのアーヤ(節)を紹介しました。

 

 「順境においてもまた逆境にあっても,(主の贈物を施しに)使う者,怒りを押えて人びとを寛容する者,本当にアッラーは,善い行いをなす者を愛でられる」(イムラーン家章、3:134)

 

アッラーは、余裕のある時だけでなく、貧しい時でも施す人をお喜びになります。施す人のみならず怒りを抑えて人を許せる人を愛されます。いずれもきわめて大きな忍耐が必要です。アッラーよ、どうか私達を忍耐強くしてください。アッラーに愛される人の中に私達を入れてください。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ソルメド先生の講話より)

ケチな人は地獄に近く天国から遠い(続)

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

前回のお話の続きです。私達は礼拝の最後に右を向いて「アッサラームアレイクムワラフマトゥッラー」、左を向いて「アッサラームアレイクムワラフマトゥッラー」と言います。これは「あなたの上に平安とアッラーのご慈悲がありますように」という意味です。つまり、私達ムスリムアッラーとの関係だけでなく、左右にいる人、つまり周囲にいる人との関係も大事にしなければならないことを意味しています。自分と自分の家族はお腹が満たされているのに、隣人が空腹の状態であれば、その人は信仰心があるとは言えません。私達はアッラーからもらった生活の恩恵を享受しても良いのですが、他人に与えることを忘れてはいけません。

 

預言者様(彼に平安と祝福あれ)は言われました。

 

「サダカ(任意の喜捨)をすると本当に災難が取り除かれ、リズキ(糧)が増えます」

ハディース、タブラニ伝承、アブドゥッラー・イブン・マスード

 

また、預言者様(彼に平安と祝福あれ)は私達のために「アッラーからの恩恵が追加されますように」と3回祈願してくださいました。預言者として1回祈願するだけでも私達にとっては十分なのに3回も祈願してくれたのです。アルハムドゥリッラー。

 

先生はあるお金持ちの夫婦のお話をされました。ある日その家族が食事を楽しんでいると、貧者が食べ物を求めてその家にやって来ました。夫はその人に食べ物を与えず、妻に追い払うように命じました。それから時は流れて、その妻は夫に離婚されました。離婚された女性は貧しさから物乞いをしていると、あるお金持ちの男性と縁が出来て結婚しました。そして経済的に何不自由なく暮らしていました。ある日、その夫婦の家に貧者が物乞いにやって来ました。その貧者はなんと前の夫でした。妻は現在の夫に、「この人は自分の元夫で、以前あなたが食べ物を分けてほしいと言ってやって来たときにあなたを追い払った人です」と言うと、夫は「構わないよ。食べ物を分けてあげて」と言いました。マーシャッラー。

 

この例のように、人生の中で現在と未来の立場が逆転することがあります。今は生活に余裕があったとしても、将来、助けを求める立場になるかもしれません。そして誰が助けてくれるか分かりません。ですから私達は普段から人に施していく必要があります。次回はインシャッラー、視聴者からの質問に先生が回答された内容を書きたいと思います。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ソルメド先生の講話より)

ケチな人は地獄に近く天国から遠い

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

今日は番組で「ケチな性質をシャットアウトする」というテーマで先生が語った内容をまとめていきます。

 

人に物を与えるのを惜しむ性質はシャイターン(悪魔)の囁きが関係しており、私達が財産やザカート(義務の喜捨)、サダカ(任意の喜捨)を支払うのを惜しむように仕向けます。ザカートルフィトル(日本では一人当たり約1500円)を支払う時に惜しむ人がいますが、私達が毎日の衣食住を満たすために、アッラーから普段どれほどのリズキ(糧)をもらっているのでしょうか。ザカートはそのうちの何分の1でしょうか。まして、ザカートはムスリムにとって支払う義務のあるものであり、貧しい人が受け取る権利です。

 

先生は、財産を施すのを惜しむ人は、その財産が地獄で自身を焼く燃料になると言われました。また、このような人は、来世で地獄に行くだけでなく、現世でも人から嫌われます。善良な人に嫌われるのみならず、ケチな人にさえ嫌われます。ケチな人は誰からも好まれません。アッラーも天使も預言者様(彼に平安と祝福あれ)も人間も誰でもこのような人を好みません。ケチな人を好むのは地獄だけです。

 

ケチな人の中には財産が減ることを嫌って、自分自身や家族に対しても車を買ったり服を買ったりするのを惜しんで物質的に苦しい生活を送っている人もいれば、自分は豪華な家や車を持ち、快適に生活し、自分の家族には与えるのに、他人に施すのを嫌う人もいます。いずれにしても財産や物質に心が乱されている状態です。

 

先生は、行いが悪くても、施すことを厭わない人のイバーダ(崇拝行為)の方が、イバーダをきちんとしていながら施すことを嫌う人のイバーダよりもはるかに良いと言われました。アッラーよ、この記事を読んでくださっている皆さん全員と私をケチな性質から遠ざけてください。人に施すことを好む性質にしてください。アッラーの近くに導いてください。次回はインシャッラー、この続きになります。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ソルメド先生の講話より)

感染症により亡くなった方の遺体を埋葬するまで

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

インドネシア新型コロナウイルスに感染して亡くなった方は2万人を超えており、感染の拡大に歯止めがかかっていない状況です。今日は感染症で亡くなった方の遺体を埋葬するまでの流れについて、ラシード先生が説明された内容をまとめたいと思います。

 

遺体を埋葬するまでの過程には通常とは異なる2つの方法があり、一つ目はアッラーの道で起きた戦争で殉教した場合に行う方法です。預言者様(彼に平安と祝福あれ)の時代に起きたバドルの戦いやウフドの戦いがこれに相当します。この場合、衣服はそのままの状態で、戦死した土地ですぐに埋葬します。

 

二つ目は感染症で亡くなった場合に行う方法です。この場合、遺体を洗浄し、白い布で覆い、お祈りをし、埋葬するという通常と同じ手順を踏む必要があります。ただ、ウイルスに感染する危険性があるため、通常とは方法が異なります。まず遺体を洗浄する人は、遺体の性と同性の人が行います。ウイルスに感染しないように全員医療用防護服を身に着けます。遺体が服を身に着けている状態であれば、脱がさずに洗浄します。排泄物があれば流し出します。次に遺体を白い布で覆います。それから、ウイルス感染の予防のため、遺体をビニールで密封します。その後、隔離された場所でお祈りを行います。最後に埋葬します。埋葬の前後にお墓の上でお祈りを行っても構いませんが、感染を避けるため、遺体のある場所とは異なる場所でお祈りを行うこともできます。以上が感染症で亡くなった場合に遺体を埋葬するまでの流れになります。

 

先生によると、シャヒード(殉教者)は5種類あり、戦争で殉教した人、(宣教師など)アッラーの道で奮闘した人、感染症で亡くなった人、腹痛で亡くなった人および溺死した人がこれに相当し、この5種類のムスリムは無条件で天国に入れてもらえます。インシャッラー。

 

私達は現在のコロナウイルスの蔓延をネガティブに捉えてしまいがちですが、裏を返せばアッラーからの大きなご褒美が待っています。前にも書きましたが、アッラーを信じて毎日忍耐しているだけでも、毎日アッラーからたくさんのご褒美があるのです。ですから心を強く持てばいいのですが、それが難しいのであれば、心を強くしてくれるようにアッラーにお願いしてみると、精神的に楽になれるのではないでしょうか。インシャッラー。アッラーがコロナ禍の私達の心を強くしてくださいますように。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)

卵子を凍結保存してもいいですか?

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

番組視聴者から、卵子の凍結保存についてイスラム的見解を求める以下のような質問が寄せられました。

 

「私は37歳の未婚女性です。子供が欲しいので卵子を凍結保存しておきたいのですが、このことについて先生のご意見を聞かせてください」

 

結婚相手に恵まれず、出産適齢期が過ぎて行くことを心配して、出産できる年齢のうちに自分の卵子を凍結保存しておきたいという女性からの質問です。この質問にラシード先生が回答されました。以下にまとめます。

 

卵子の凍結保存は、最近の医学の発達により可能になったものであり、預言者様(彼に平安と祝福あれ)の時代に存在しなかった方法であるため、新しいイスラム的見解が必要になりますが、卵子の凍結保存については、イスラム学者の間でも見解が一致していません。ただ、ひとつ言えるのは、凍結保存する精子卵子も正式な夫婦から採取したものである必要がります。

 

先生は、凍結保存した精子卵子を管理している施設で取り違えが起きないかを心配されていました。また、研究者や医師はその分野では専門家であっても、イスラムに関しては専門家ではないので、よく注意しなければならないと言われました。そして「アッラーが諸事を簡単にしてくれるから絶望しないことです」と強調されました。

 

出産年齢の卵子を保存しておきたい気持ちはよく分かります。おそらく切実な思いからそのような方法を探られたのでしょう。一方、先生が言われたように、施設内での試験管の取り違えが起きる可能性を考えると怖い思いがします。自分だったら躊躇するかもしれません。やはりドゥアー(アッラーに祈願)してアッラーのご意志にお任せするのが一番良いのではないでしょうか。この質問者のような悩みを抱える女性にどうかアッラーが出来るだけ早く良いご縁をお恵みくださいますように。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)