ムスリム学びブログ

インドネシア人と結婚したムスリムの日々の学びの記録

孤児を社会全体で守る責任

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

番組冒頭で、ある徳の高い中年男性の話が紹介されました。その人は岩を砕いて砂にして販売する仕事をしていましたが、ある日、市場で一人の孤児と出会い、心を動かされて孤児を助けようと思いました。その男性と奥さんの間には子供がいなかったため、男性は自分が子供を支援することが出来ることに感謝しました。この男性は75人の孤児の教育費を援助しました。男性は「私は財団を設立したのではありません。子供達を教育し、アッラーにお願いしただけです。その結果、アルハムドゥリッラー、数人が寄付を申し出てくれました」

 

マーシャッラー。先生は実に徳の高い善行だとおっしゃいました。続いて先生はクルアーンのアーヤ(節)を読まれました。

 

「あなたは,審判を嘘であるとする者を見たか。 (1) かれは,孤児に手荒くする者であり, (2) また貧者に食物を与えることを勧めない者である。 (3) 災いなるかな,礼拝する者でありながら, (4) 自分の礼拝を忽せにする者。 (5) (人に)見られるための礼拝をし, (6) 慈善を断わる者に。 (7)」(手助け章、107:1-7)

 

先生が読まれたのは(1)~(3)までのアーヤですが、先生の講話に関係する箇所と判断したため、スーラ(章)全体を載せておきます。このスーラは、人を家に招いて食事を振る舞う余裕があるにもかかわらず、食べ物を求めてやってきた孤児に分け与えず、追い払った人物について啓示が下されたものです。私達ムスリムは孤児に対して、何も与える余裕がなければ仕方ありませんが、他人をごちそうに誘うことが出来るだけの余裕があれば分け与えなければなりません。預言者様(彼に平安と祝福あれ)は「孤児に慈悲をかけ、助けた者は天国に入ります」と言われました。どれほど礼拝を行ったとしても、食べ物を求めてやって来た孤児をないがしろにすると、その礼拝はアッラーに受け入れてもらえません。

 

イスラム教は家で礼拝し、断食し、クルアーンを読んで完結する宗教ではなく、社会全体との関わりをきわめて大事にする宗教です。ですから、孤児を見たら気に掛けなければなりません。孤児を気に掛けることは社会全体の責任になります。孤児は父親を亡くし、経済的に困窮しています。優しい言葉で接してやり、叱り飛ばしてはいけません。孤児を粗末に扱うと、同じように私達の社会もアッラーに粗末に扱われることになります。

 

以前、私が参加した勉強会で先生が、イスラム教国家に貧しい国が多いのは恥ずかしいことだと言われました。確かに、社会全体で経済的に困窮している人を気に掛けていれば、貧富の差が大きいという状態はなくなるのではないかと思います。私達一人一人が社会の状況をよく見て責任を持たなければならないと感じました。

 

次回はインシャッラー、孤児に対してどのようなアクセスが良いのか、孤児とは何歳までの子供のことなのかについて書きたいと思います。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)