ムスリム学びブログ

インドネシア人と結婚したムスリムの日々の学びの記録

『ゲド戦記』を再び観た感想

先日テレビで放送された『ゲド戦記』。前にテレビで放送された時に観たことがあり、あまり印象に残っていなかったのですが、今回久しぶりに観て過去の自分を思い出したりして、それなりに楽しむことができました。今日はその感想を書いてみたいと思います。

 

まず、物語全体の世界観は好きです。絵や音楽、テルーの歌も素晴らしい。この辺りはジブリの製作スタッフがいるから万全なのでしょう。そして、いきなりの「父親殺し」には驚かされます。この部分は原作にはなく、プロデューサーに勧められて宮崎吾朗監督が脚本に盛り込んだと言われていますが、父であり巨匠の宮崎駿監督に対するものすごいプレッシャーが反映されているようです。プロデューサーにそそのかされて話題づくりのために「父親殺し」を盛り込んだのではという評価もありましたが、本人の発案ではないにしても、越えたくても越えられない壁である巨匠、宮崎駿を断ち切るために本人としては受け入れやすい提案であったことは想像に難くなく、「父親殺し」は「壁」を超えるために必然と感じたのではないかと推察できます。

 

ただ、全体的に丁寧さが足りなかったのが残念です。アレンは父親を殺したのだから当然重罪です。ましてアレンの父親は王様なのですから、国に帰ってただで済むはずもなく、死刑か、生涯投獄されることになる可能性もあります。なのに、物語終盤でアレンはテルーに「(罪を償ったら)会いに来てもいいかな」と言っています。私には随分気楽な言葉に聞こえました。最後もハッピーな感じで旅立って行ったのも、これから父親殺しの罪を償いに行く罪人の雰囲気が微塵も感じられません。「父親殺し」を映画に盛り込んだなら、後のフォローも丁寧にした方がいいと思います。

 

また、私は原作を読んでいないのですが、「真の名前」にはこの物語独自の意味があるようです。このあたりも原作を読んでいない人にとっては意味不明です。同じ名前についても、「千と千尋の神隠し」では、映画の中にその重要性が描かれており、想像を膨らませながら知るには十分な情報量だったと思います。

 

物語の設定では、竜は人と離れて生活していたのに、最近になって人間の住む領域に姿をみせるようになって、世界の均衡が揺らぎ始めているということでしたが、テルーが実は竜であり、人の姿になって人間の世界にいることの意味もいまひとつよく分かりません。

 

原作は全6巻から成る長編なので、わずか2時間の映画にまとめるのは大変だったとは思いますが、原作を読まなくても、一通り理解できるようにはしてほしかったです。その点、「ハリーポッター」は原作を読まなくても物足りなさを感じたことはありません。映画もシリーズになっていると突っ込まれそうですが、そのうちの作品のひとつだけ観ても物足りないからと次の作品を観たくなるわけでもありません。途中から観たとしてもどの作品でも楽しむことができます。

 

これは私事ですが、アレンが精神的に不安定で暗闇の中に迷い込んでいる姿を見て、過去の自分にもそんな時があったことを不意に思い出しました。私は20代のころ、自分の中に迷い込んで、そこから一歩も踏み出せなくて苦しんでいました。普通に仕事もしていたし、友達とも遊んだり、異性とお付き合いしたりもしていましたが、何をやっても心から楽しめず、将来に不安を感じていました。今思うと、友達と遊んだりする時にそれなりに楽しんでいたはずなのに、それを楽しいことだと認識していなかったように思います。本当は目の前に幸せがあったのに、そのことに気付いていなかった。もちろん悩んでいる時期にそれに気づくのは容易ではありませんでしたが。

 

この物語の大枠のメッセージは「人はいずれ死ぬからこそ今を大事に生きる」ということ。最後にみんなで食卓を囲んで談笑するシーンがありますが、このような何気ない日常の生活にかけがえのない幸せがあるのでしょう。何もないことがどんなに幸せか。青い空を美しいと思って眺めることができるのがどんなに幸せか。アルハムドゥリッラー。このことを忘れないようにしていきたいと思います。

 

感想は以上になります。全体的な物足りなさは否めないですが、酷評されているほど悪い作品だとも思いません。宮崎吾朗監督が今後さらにいい映画をつくるために必要なステップだったと思えば納得できます。これから監督がつくる映画を楽しみにしたいと思います。