ムスリム学びブログ

インドネシア人と結婚したムスリムの日々の学びの記録

ドゥアーの健康へのプラスの影響

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

今日はドゥアー(アッラーへの祈願)についてラシード先生がお話しされた内容をまとめていきます。

 

預言者様(彼に平安と祝福あれ)は「ドゥアーは信仰する者の武器です」と言われました。

 

フランスのノーベル生理学・医学賞受賞者アレクシス・カレルも「祈りは人間が生み出しうる最も強力なエネルギーである。それは地球の引力と同じ現実的な力である。医師としての私は、多数の人々があらゆる他の療法で失敗した後に、祈りという厳粛な努力によって疾病や憂鬱から救われた例を目撃している」という言葉を残しています。

 

1930年代から科学者らが祈りの健康に及ぼす良い影響について研究を始めた結果、心臓および脳波に良い影響が認められることが分かりました。ドゥアーは精神的な影響のみならず、身体的にも良い影響を及ぼしているのです。

 

ドゥアーは基本的にはアッラーに対して願いを口にすることを意味していますが、先生によれば、それだけでなく、お祈りなどの崇拝行為、ボディーランゲージもドゥアーになるとのことです。ボディーランゲージは例えば、親が自分の子供が自分に対して乱暴に振る舞った時にその悲しみからくる涙や、お父さんが家族のために仕事に行き、照り付ける太陽の下で重労働に耐えて流した汗などです。このような汗や涙は天国では真珠となります。

 

ドゥアーには叶えられる条件がいくつかあります。次回はインシャッラー、その条件を書いていきます。

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)

 

 

親孝行は天国のドアの鍵

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

番組に親孝行に関する質問が寄せられました。

 

「私は5年間スンナ(預言者様の行っていた慣行で推奨行為)の断食をしてきました。最近、新型コロナウイルスの影響で自宅勤務になり、高齢の母と過ごすようになりましたが、母は私と食事することを望んでいます。私はスンナの断食と母のどちらを優先すべきでしょうか」

 

ラシード先生は、お母さんとの食事を優先させてくださいと回答されました。その理由は、親孝行は義務であるのに対して、スンナは推奨行為であるためです。スンナを義務より優先させてはいけません。先生はクルアーンのアーヤ(節)を紹介しました。

 

「あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが,あなたと一緒にいて老齢に達しても,かれらに「ちえっ」とか荒い言葉を使わず,親切な言葉で話しなさい」(夜の旅章、17:23)

 

私達はアッラーに対する崇拝行為の次に両親に尽くさなければなりません。両親に対しては丁寧な言葉で話し、決してきつい言葉を使ってはいけません。たとえ両親が自分の心を傷つけるようなことを言っても、両親の自分に対する要求が多くても、我慢して聞いてあげるよう努めます。両親への孝行は天国のドアの鍵になるからです。そして現世での成功の鍵にもなるのです。そのためにはアッラーに対する崇拝行為と親孝行の両方が揃っている必要があります。両親が自分に対して幸せを感じていれば、アッラーが私達を天国に招いてくださり、反対に、両親が自分に対して怒っていれば、アッラーの怒りを招く結果となります。

 

私は昨晩、母が消えてしまう夢を見ました。詳しいことは覚えていませんが、消えたという結果だけは印象に残っています。気になって電話をかけると、元気そうだったので安心しました。会話が終わって電話を切る時に母が「ありがとう」と一言。ただ電話をかけるということでも、やはり子供から気に掛けてもらうのは嬉しいものなのだろうなと改めて思いました。私がよく聞く先日のイスラムオンライン講座では、私達はアッラーから与えられたあらゆるものを使って親に孝行しなければならないと教えていました。アッラーよ、どうか私達を忍耐強くしてください。そして私達がアッラーから与えられたものを使って両親にたくさん孝行することができますように。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)

ノンムスリムの祭日に贈り物を

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

外務省のデータによると、インドネシアではイスラム教が87.21%と圧倒的多数を占めていますが、そのほかにもキリスト教9.87%、ヒンズー教1.69%、仏教0.72%、儒教0.05%、その他0.50%(2016年、宗教省統計)となっており、さまざまな宗教が存在します。今回は番組に届いた「いつもイードルフィトル(イスラム教の祭日)にノンムスリムの隣人から贈り物をいただいています。お返しにその人の宗教の祭日に贈り物を贈っても良いでしょうか」という質問にラシード先生が答えた内容を紹介します。

 

先生はクルアーンを引用して説明されました。

 

アッラーは,宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり,またあなたがたを家から追放しなかった者たちに親切を尽し,公正に待遇することを禁じられない。本当にアッラーは公正な者を御好みになられる」(試問される女章、60:8)

 

下線は即ち善良なノンムスリムであり、この人たちと良い交流をすることは禁じられていません。贈り物を贈れば相手も喜びますし、そこから温和なムードが生まれます。預言者様(彼に平安と祝福あれ)もノンムスリムからの贈り物を受け取っていました。相手の宗教の祭日であるかないかに関わらず、善行のひとつとして行えば良いでしょう。そうすればインシャッラー、アッラーに善行として受け入れられます。

 

日本でいうと、お正月にお年玉をあげるとか、クリスマスやお雛祭りにケーキをプレゼントするとかいう行為がこれに該当するのでしょうか。宗教というよりは文化である気もしますが。いずれにしても「プレゼントを贈る」という善行のひとつとして行うことがポイントでしょう。他宗教の人々と良い交流をしていけば、ムスリムの善行を見てもらえるチャンスにもなり得ます。多くの人が本来のイスラムの姿を見てくれるように、私達ムスリムは努力していかなければならないと思います。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)

人を心から許せないとき

(ここではインドネシアのテレビ番組、Kalam Hatiで先生がお話しされた内容に基づいて書いています。)

 

友人や隣人、夫婦など、様々な人間関係の中でトラブルが生じることがあります。人に傷つけられることもあります。その人を許したとしても、思い出すと、その時の感情が戻ってきて腹立たしく思うこともあります。ラシード先生はこのような場合に関するイスラム的見解を語りました。

 

まず、傷つけられたら1回だけは応酬して良いのですが、あくまで1回だけで倍返しは禁じられているとのことです。次に、最も重要なことですが、出来れば相手を許してあげるのが一番良いそうです。これがアッラーに近づくための一番の近道になります。

 

それでも傷つけられたことを思い出して腹立たしく思ったりしてしまうのは、自然な人間の心なので仕方ないですが、いったん許したら、許したという気持ちを忘れないようにし、蒸し返さないようにしていく必要があります。蒸し返してしまうと、せっかくの「許した」という善行に汚点が付いてしまいます。人を許せば自分が過ちを犯した時にも人に許されやすくなります。自分の信仰心(イマン)を思い出してみれば、難しくはないでしょうと先生は言われました。

 

イスラムで人を許す行為は非常に高く評価されています。私もイスラム勉強会で先生から「とりあえず言葉だけでもいいから○○さんを許しますと言ってみましょう。心はあとからついていきます」と教わりました。毎晩寝る前に「私を傷つけた人を全員許します」と言うと良いそうです。また、その人のために良いドゥアー(アッラーへの祈願)をたくさんしてあげると良いそうです。私も実行していますが、許してしまうだけで、腹立たしい気持ちを引きずらなくて済むので、そのままにしておくよりは精神衛生的にもはるかに良いと思います。確かにそれでも、人に付けられた傷を思い出すと苦しかったり悲しかったりするのですが、出来るだけ考えないようにして、その人のために良いドゥアーをして心を汚さないように努めています。いつか時間が解決してくれると思いながら。アッラーよ、どうか私達がアッラーのお好きな性質になれますように。アッラーの近くに行くことが出来ますように。

 

(Kompas TV、Kalam Hati、ラシード先生の講話より)

『天気の子』感想の続き(2)

ラストシーンの「僕たちはきっと大丈夫だ」

 

物語のラストシーンで、帆高は陽菜との再開を果たします。この瞬間、帆高は心の中で「違う!世界は最初から狂ってたわけじゃない。僕達が変えたんだ!」と強く感じています。老婦人(『君の名は。』の主人公、立花瀧の祖母)の「東京のあの辺はもともと海だったのよ。だから結局元に戻っただけだわ」という言葉や、須賀の「世界なんてどうせもともと狂ってんだから」という言葉に納得しきれなかった帆高でしたが、坂の上に立つ陽菜の姿を見て、はっきりと自覚したのだと思います。自分の選択によって世界が変わってしまったことを、青空よりも陽菜を選んだことを、大衆の幸福よりもたった一人の愛する人の命を選んだことを。この後の「僕たちはきっと大丈夫だ」という帆高のセリフは、おそらく陽菜の顔を見て安心したから出た気持ちなのでしょう。そして自分の選択に間違いはなく、狂ってしまった世界のなかでやっていくしかない、陽菜を全力で守っていこうという覚悟を決めたのだと思います。咲き誇る桜がそんな2人を祝福しているかのようでした。

 

この映画をご覧になった皆さんは2人の行動をどのように感じられましたか。映画では桜や感動的な曲で盛り上げられ、この2人が肯定的に捉えられていますが、自分達の個人的な思いによって多数の人間の幸福が犠牲になった結果を否定的に捉えた方もおられるかもしれません。しかし、もし自分の大事な人が目の前で世界を相手にたった1人で苦しんでいるとしたらどうでしょうか。自分の最愛の人に対して、大衆の幸福のために犠牲になってくださいと言えますか。人の心とはそういうものではないでしょうか。帆高の心は、私には人として失ってはいけない心のように思えます。

 

また、「僕たちはきっと大丈夫だ」のセリフのなかには、世界は狂ってしまったけど、多少のことは何とかなる、前向きにやっていこうというメッセージが込められているように思います。これは2人が大丈夫という意味と、世界が大丈夫という意味の両方ではないでしょうか。このメッセージは今のコロナの時代にマッチしています。この映画は2019年に公開されたものですが、コロナウイルスの蔓延によって一変してしまった世界に戸惑う私達に対して、大丈夫、前向きにやっていくしかない、とあたかもエールを送ってくれているかのようです。

 

この映画はシンプルなストーリーですが、奥深く、曲の歌詞も訴えかけてくるようで、味わい深く楽しむことができました。これまで2回観ましたが、もう一度観ると新たな発見がありそうなので、時間があればもう一度観てみたいと思います。インシャッラー。

 

感想はここまでになります。お読みいただき、ありがとうございました。

『天気の子』感想の続き

主人公2人の年齢への向き合い方

 

陽菜は実際には来月で15歳の誕生日を迎えるはずなのに、帆高に来月で18歳と偽っていました。そのほかにも、須賀に「(年齢が15も18も)大して変わんねえじゃん」と言われて、帆高が「ですよね」と言うのに対し、「変わります!」と返しています。また、夏美に帆高のことを「本当に子供ですよね」と言ったり、「私は早く大人になりたいです」と言ったりしています。年齢を偽らないとアルバイトに就くことが難しかったからとは思いますが、おそらく陽菜は凪の保護者として精神的にも自立しなければと思っていたのでしょう。また、人柱のことは知らなかったにしても、自分の持つ不思議な力と「晴れ女」をやる毎に体が透けていく現実を見て、何かしら自分の身に課された大きな役割を感じていたのかもしれません。

 

陽菜とは対照的に、帆高は小学生の凪のことを年上としてのプライドもないかのように「センパイ」と呼んでおり、年齢の差をあまり気にしていない様子でした。警察に連行された時に初めて陽菜の実際の年齢を聞かされてショックを受けていましたが、物語の終盤に陽菜を救出に行った時、初めて「陽菜」と呼び捨てにしました。ここで帆高が精神的に大人になってきて、陽菜を絶対に守ろうという決意が示されているように思います。

 

凪の叫び

 

凪はプレイボーイではありますが、「晴れ女」の仕事をオーダーした老婦人の肩を叩いてあげたり、「姉ちゃんには青春っぽいことをしてほしいんだ」と帆高に語ったりと、姉思いの心優しい少年でした。物語終盤で警察に飛びかかった時に「全部お前のせいじゃねぇか!姉ちゃんを返せよ!」と泣きながら叫んだシーンは胸が詰まりました。前回書きましたが、須賀の「人柱1人で狂った天気が元に戻るんなら俺は歓迎だけどね」というセリフからは社会という大きな枠の中で陽菜の犠牲は取るに足りぬものとしか考えられていない印象を受け、歪んだ正義のようなものを感じますが、それに対してこの凪の叫びと涙は、姉を一人のかけがえのない人間としてみているからこそ出たものであり、姉を絶対に失くしたくないという必死の訴えに心打たれました。同時に、陽菜に「あなたを大事に思ってくれている人がここにもいるんだよ」と伝えてあげたいと思ったシーンでした。

 

次回もインシャッラー、この続きを書いていきます。

 

映画『天気の子』

先日、新海誠監督の『天気の子』が地上波初放送となったので、早速録画しましたが、最近になってようやく観たので、今日はその感想を書いてみたいと思います。この作品は登場人物の心理状態がその言動に細かく描写されているので、注意深く見ていると様々な発見がありました。内容も深く、考えさせられる映画でした。

 

須賀は現代人の代表

 

この物語の主人公、帆高の雇用主である須賀は、最愛の妻に先立たれ、大切な人を失って、心にどこか空虚なものを抱えて生きているようです。仕事も怪しげな記事の編集で、社会的評価も低く、亡くなった妻の母にも疎んじられ、自分の娘になかなか会わせてもらえない状態であり、その現状をどこか諦めに似た気持ちで受け入れているように思えます。須賀は何かを諦めて、それが大人なのだと自分を無理やり納得させて生きている現代人の代表的存在です。「人柱1人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね」というセリフからも、大切なものを諦めるのが大人なのだと自分を納得させている様子が窺えます。

 

その一方で、家出少年の帆高を放っておけなかったり、帆高の拾って来た猫を事務所で飼ってあげたり、寝言で亡き妻の名前を呼んだり、指輪を触ったりする様子から、人情味が感じられる憎めない存在でもあります。同時に、亡き妻のことを現在も引きずっている様子が窺えます。須賀は、帆高が警察を振り切ろうともがき、「邪魔するな!俺はただ、もう一度あの子に会いたいんだ!」という言葉にハッとしましたが、ここで帆高の陽菜に対する一途な気持ちと、会いたくても会えない元妻への自分の気持ちとを重ね合わせたのだと思います。大切な、自分がどこかに置き忘れて諦めていた心を思い出したのでしょう。その結果、警察を抑えて帆高を陽菜のもとに向かわせました。

 

このように、本来、人は誰でも柔らかい純粋な心を持っているのですが、社会生活に自分を順応させようとした結果、自分の純粋な気持ちをどこかに置き忘れ、社会に順応することこそが大人なのだと無理やり自分を納得させて生きている人が多いと思います。須賀の心の変化は、きっかけさえあれば思い出すことができるという希望を私達に与えています。3年経過後、帆高が須賀の事務所を訪ねた時に、事務所が広くなり、何人かスタッフを雇い、仕事の順調ぶりが窺えました。そして娘とデートしたことを、帆高に嬉しそうに報告していましたが、帆高の純真さを見てハッとしたあの「気付き」があったからこそ、須賀は過去を清算し、前向きに生きられるようになったのだと思います。

 

次回はインシャッラー、この続きを書いていきます。