ムスリム学びブログ

インドネシア人と結婚したムスリムの日々の学びの記録

映画『紳士協定』

今日は1947年にアメリカで公開されたエリア・カザン監督作品『紳士協定』を観た感想を書いてみたいと思います。これはアカデミー作品賞・助演女優賞・監督賞を受賞した作品です。主演は『ローマの休日』のグレゴリー・ペック。あらすじは以下の通りです。

 

ジャーナリストのフィル(ペック)は妻に先立たれ、幼い息子と病気がちの母親の3人暮らし。ある日、週刊誌の編集長に招かれてニューヨークに渡り、そこで反ユダヤ主義について記事を書いてほしいとの依頼を受けます。この企画の発案者で編集長の娘キャシーと知り合い、2人は次第に惹かれ合っていきます。一方フィルは反ユダヤ主義の実態調査のため、自身を一定期間ユダヤ人と称して取材を進めていきます。ユダヤ人になって初めて知った周囲の差別と偏見に怒りを覚えるフィル。取材を進めていくうちに、差別は目に見えない形で人の心に存在し、それが差別を助長していることに気付きます。交際が順調に進んで結婚の約束までしたキャシーの中にもそれを感じ、キャシーもフィルの反ユダヤ主義に対する敏感な反応を次第に疎ましく感じるようになり、2人は口論の末、婚約は破談になります。一方、記事はついに完成し、企画は大成功を収めます。傷心のキャシーはフィルの友人でユダヤ人のデイヴに話を聞いてもらううちに、差別を憎いと言いながら傍観者でいただけの自分が差別や偏見を助長していたことに気付きます。最終的にデイヴが仲介し、フィルはキャシーの許に戻って物語は終わります。

 

まず主人公フィルがユダヤ人になりすますという設定が面白いです。まさに新しい切り口。何事も本当にその立場にならないと当事者の気持ちは分からないと思います。これはイスラム教の断食の目的とも一致しています。

 

次にキャシー。ユダヤ人差別の実態に憤るフィルに苛立ち、「病気じゃなくて健康を求めて何が悪いの?」と心の内を吐露する場面ですが、このように偏見への憎悪を公言しながらも実は関わりたくない、自分ひとりだけで偏見と闘っても意味がないと思っている人が世の中の大半だと思います。それでもキャシーはデイヴに相談し、自分のそのような態度が偏見を助長していることに気付いたのは大きな一歩だったと思います。

 

フィルの子供トミーが(仮の)ユダヤ人であることを理由に仲間外れにされ、泣いて帰ってきたシーンは心が痛みましたが、トミーにとっても大きな勉強になった出来事だったと思います。ただ、これは一時的なものだからそう言えるのであって、デイヴのように偏見にさらされるのが毎日だったとしたら幼少の頃に負う心の傷はどれほど深いのでしょうか。ユダヤ人に限らずこの世には多くの差別や偏見が存在します。私達は正しい心の目で世界を見る必要があると思います。

 

ユダヤ人のデイヴは社会の冷たい差別や偏見に揉まれて育ってきたにも関わらず、ユダヤ人でない友人のフィルのことを心から思いやり、キャシーの話にも真摯に耳を傾け、見事にキャシーの改心を促しました。デイヴの心はまったく歪んでいません。この性質も、相手から誹謗中傷されても自分は善行で返しなさいというイスラムの教えと一致しているように思います。自分もこうありたいです。また、デイヴがキャシーに言った「男が求めるのはただ一緒にいてくれる相手じゃない。子供の母親でもない。必要なのは人生の荒波を一緒に乗り越えていくパートナーだ」というセリフ。これも結婚の本質をついた良い言葉だと思います。

 

フィルの「ユダヤ人お試し期間」がちょうど婚約期間と重なっているという設定も面白いです。何故わざわざ重複させるのかと思うかもしれませんが、これは人生の伴侶となる人の本質を見抜く好機になると思います。この「お試し期間」がなかったとしたら、2人はおそらくすんなりと結婚にこぎつけたでしょうが、このような精神的ギャップはおそらく後になって表面化してくるでしょう。もっともこのようなギャップは結婚後も多数現れてくるとは思いますが、今回の「お試し期間」が2人にとっての最初の試練になったと思います。

 

病気がちのフィルのお母さんがキャシーの新たな一歩の知らせを聞いて喜び、「長生きしたくなったわ」と言ったセリフ。これは小さな一歩の偉大さが成し得る何かを見たいという願望であり、この願望こそが人間の生きる希望や意欲、力につながるのだと思います。

 

差別や偏見はイスラムでも罪であり、心が歪むと、正しい思考だけでなくアッラーのご慈悲までも遠ざけてしまうと言われています。このような状態に陥らないように私達ムスリムは礼拝やズィクル(アッラーへの呼びかけ)をして心をいつもきれいに保つ必要があると思います。

 

ここまでお読みいただきましてありがとうございました。